昭和54年08月03日 朝の御理解
御理解 第35節
「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。」
家内に不和はない。円満のおかげ。それには日々の改まりが第一じゃと始めにいうておられます。最後に家庭円満をいうておられます。だからそういうおかげを頂く只思い方としては、はぁ今日も元日のような気持ちで過ごそうとか、大晦日のような積りでと、まぁいうたり思うたりもしますけれども、いわんでも思わんでもその気になれれるという事が信心だと私は思うです。
ははぁそして私が日々繰り返しておるのが、この元日の心だなぁ大晦日の心だなぁと、自分の生き方をそういうふうに思える様な所までいかねば、元日と思うてと大晦日と思うというのでは、本当の事ではないのですね。それには何というても日々の改まりが第一と仰っておられる。日々改まるという事が真心です。日々本気で改まろう。これはね例えて言うならば、まぁ種を草花なら草花の種を蒔いた。芽を切った。そしてそれが伸びてゆくそして葉にもなり花にもなり、そして実にもなると言う様にですね。
絶えずそういう風な状態が心の上にも頂けるという事です。又頂かなければいけない。信心さして頂きますと、いわゆる真とか真心というのが言われます。又それを追求してゆく事なんです。だから目には見えないようだけれども、少しでも伸びておる。少しでもこう進んでおると。それには私共がねいわゆる真心になる事。真心とは日々の改まりから生まれて来るという事。だから昨日の真心は、今日の真心じゃないと言う事がいえますね。昨日は真心であっても今日は同じではいけない。
もう幾らかでも伸びておらねば、新しいものは生まれてこない。三代金光様は「日々が新です」と仰られた。日に日に新だという事はそれだけ進化しておる、進んでおる。進む為にはもう私共が限りなく改まりに改まっていく事の、いうなら精進であります。それは失敗してもいいんです。精進しとればいいんです。不思議です精進しておるとそこから新たな、又昨日では感じれなかった何かが、そこにいわゆる生き生きしたもの、瑞々しいものが生まれて来るんです。
ですから結局私共が何時も自分の心、いわゆる合楽でいわれる心行でなんです。心の行なんです。そしてもう全ての事をま神愛と受けれる事は、何ですけれども結局全ての事を修行と受けなければ、神愛と言う事は分からないです。そういう心が生き生きと、まぁはずんだ心にもなれば、水々しい心にもなる。いうならば元日の心にもなれるというもの。今日も一日おかげを頂いて、まぁ腹を立てずにすんだ愚痴をこぼさんですんだ、と言う様にです一日を締め括った時にね。
あれもおかげであったなぁこれもおかげであったなぁというて、そのおかげであった事に、改めて新たな祈りを捧げて休ませて頂く。もうそこには眠れんてんなんてん言う様なこつがあって良かろう筈がないです。それこそ安眠が待っているです。結局いわゆる元日の心。いうなら新たな心。生き生きした心水々しいまでの。そういう心で改まる事に専念する。その改まった心が真心だと。いわゆる生き生きした心だとこういう。
その生き生きした心で捉えられるものは何かというと、例えばそこにいやな問題が起こってもそれを修行として受ける。生き生きした心であれば例えば腹の立つ様な問題でも、生き生きした心で有り難いと捉える事が出来る。いわゆる神愛として受ける事が出来る。そういう日々をね過ごさせて頂く限りです、いわゆる一日を締め括った時に、あぁあれもおかげであったなぁこれもおかげであったなぁと、いやまぁだはっきり答えは出ていないけれども、これも又おかげの要素になるものでありおかげの元になるものだ。
はっきりは分からない、それは種を蒔いてすぐは芽が出ないように。いや芽が出て伸びておるのは目には見えないように、何時とはなしに伸びていく心。しかもねこれがね日々繰り返されると言う事を、ここでは教祖は仰っておられるのではないか。そういう心が元日の心であり、又大晦日の心だと言う風に教えておられるのじぁないだろうか。私昨日御祈念中に頂いとった事を、皆さんにお伝えする事を忘れとってから、午後の研修の時に皆に話した事でしたけれど。
『心で憎んで口で愛すなよ』という御神訓がありますよね。これなんか本当に心がけねば信心さして頂く者はね、本当にそれではおかげが受けられないです。心で憎んでねそして口で愛するという。心にもない事を口に出す。こういう心はやはり信心させて頂く者はいつも心がけておらんとそういう事があるんです。嫌な事柄もあります。けれどもそれを嫌な事柄としてそれを受けたんでは、いわば嫌な事柄を向こうへ押しやるようにあります。それを只頂く為の精進。
だから一辺には有り難くは頂けんでも、頂く為の精進なんです。そこでね例えば心で憎んでとまではいかんでもです、なら心に嫌だなぁと思う様な場合であっても、まぁ本当にこりゃ人間対の場合の事でしょうけれども、人間対だけの事じぁない一切同じ事がいえれる。嫌な問題嫌な人もう顔見るのも嫌、いやもう私はこの問題だけには弱いというのがあるでしょうが、その子供こう言う事にだけは弱いというその事がね、いわば修行として受けられてゆく中にです、それが嫌と思わんですむようになる。
何故かというと嫌だと思う向こうに必ずおかげがあるからです。嫌だ憎いいうなら憎い人だと思うても、その人がいうならば、まぁその人の神性というかね、神の性と言った様なものを見た時に、はぁあの人にもあんなよい所があったと言う様に気が付くとです。その人もいわば有り難く御付き合いが出来る様になる。その向こうに必ずお道の信心を基にするとね、おかげが伴うて来るです。不思議です。だからそういう体験がだんだん生まれてくると嫌な事柄、嫌な人程大事にしなければならない。
その大事にしなければならない時にです、だから始めからそれを大事にするという、だから形の上にだけでも、大事にすると言う事になるのです。いうならば心で憎んで口で愛すなよと言う事のようにありますけれども、例えばあの人は感じが悪いなぁすかんなぁと思う人にでもです、それを感じのよい人好きな人のようにしてその人にいうならば、接するという事は心とは裏腹の事ですもんね。けれどもそれだけでは、そりゃやっぱりいけませんけれどもね。
それがその人を好きになる事の為の過程だとして頂いたら、素晴らしい修行になるんです。昨日そんな事を頂いとったんです。これは嫌な問題でもそうです。嫌な事柄でもそうです。それを災難というてもよし病気というてもよい。又は食物でもよい、または人間関係でもよい。それを好きになる精進。食物でもそうです、これは好かんと思うても、それをいうならば、神様が与えて下さったものとしてだんだん頂くようになるとね。もう私は、北京にまだ居る時分にとにかくあちらに行った途端に。
もうそれこそ国中がにんにくの匂いですからねぇ。電車なんかに乗ったら途端に吐き気がくるごたったです。だからどうでんにんにくになれにぁならん好かにぁならん。所がどうですかそれを一生懸命稽古させて頂いておったら、もう生のにんにくをかじりながらお酒なんかが頂けれる様になるんです。もう味噌のお汁でもにんにくが入ってないと美味しくないごつなって来るです稽古です。そして後で分からせて頂く事は、にんにくというものがこんなにも体に効くんだと言う事が、分かって来る様なものです。
だからやっぱり稽古です。嫌いな人でも好きになる、稽古するとねその人が来んとね淋しかごつなるです。本当ですよ。そしてその人がおかげを沢山持って来るです、間違いなく。これは昨日頂いたこつですから、余談のようになりますけれどもです、私はそういう嫌いなものが好きになる心というものが、元日の心じぁなからんとでけんです。元日早々嫌いな奴がやって来たと、ものでもいおうごつなかばってん、元日じゃからと思うてお目出度うございますばいうわけ。言うならばその元日の心で。
いわゆる心が瑞々しい生き生きと修行の精神というかね、それを日々の改まりによって頂いていく。そこに嫌いなものでも好きになる精進がでける。そして私の前には嫌いなものはなくなった、と言える程しのおかげが受けられるんです。世間が広うなる訳です。嫌いなものがあるだけ世間が狭い訳です。そして始めて分かるのが総てが神愛という事になるのです。おかげ頂きたいと思うけれどもね、いやな事柄いやな問題を大切に、大切にして頂いている中にそれが大切なものである事が分かってくる。
自分に欠けているものである事が分かってくる。そこに自分円満具足と言う様なおかげになってくる。その円満具足そのものが家庭が、平和といえる事じぁないでしょうか。家庭に不和のなきが元という事に、最後にね仰っております。心の中に円満具足の円いおかげを頂く為のその過程としてです、はぁ今日はいやな感じだったという事にはもう円満を欠いておるわけですから、いやなものが無くなる精進です。
だからその事だけに精進するという事はなかなか難しいけれども、「日々の改まりが第一」と仰る、改まる心そこに一分でも一厘でも、今までかって無かった心が芽生えております。それが新たな心です。その新たな心いうならば、瑞々しい心、その心でいうならば精進していく事によって一日を締め括った時に、あれもおかげであったなぁこれもおかげであったなぁ。はぁあのう今まではあの事も、いやでいやで堪らない事だったけれども、修行として受けさせて頂いたら、心に何かしら有り難いものを頂いた。
だけではない、そのおかげでこういうおかげまで頂いたと言う事になる時に大晦日の心。あれも是もがいうならばお礼が言えれる心。本当に神恩報謝の心が篤うして、夜の御祈念をもう本当に御神前に出てお礼を申しても、申し上げても足らん程しの一日を締め括って、そして寝につかして貰う。もう安眠が出来ないと言う事は絶対にないです。ここん所を繰り返して頂くなら。そして明くる朝目が覚めんち言う事も絶対ないです。
ちゃんと神様がきちっと起こして下さるし、気分のよぅい目覚ましのおかげが頂けれる。いわゆる安眠熟睡も出来るというものです。それには日一日中がですそうした生き生きした、日々改まるという事に精進する。その精進する心で総ての事柄に打ち向かってゆく、その事柄を対処してゆく。瑞々しい心でするのですから、いやな事でもそれが修行として受けられるのです。修行の後におかげが伴わない筈は絶対ないのですからね。
どうぞ。